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1月

聖教新聞(2021/01/23)

インタビュー記事を掲載していただきました。

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〈危機の時代を生きる〉
“弱いロボット”が教える豊かな関係性の在り方

変化が絶えないコロナ禍の社会。この不安定な時代を生きるには、「強い個人」であらねばならない……というイメージとは異なった生き方を提唱する研究がある。豊橋技術科学大学・岡田美智男教授による<弱いロボット>の研究だ。その内容、真意とは――。

――岡田教授が研究している<弱いロボット>とは、どのようなロボットでしょうか。

ものづくりというのは基本的に、一つの個体にいろいろな機能を閉じ込めて、自己完結させるのが望ましいという発想で成り立っています。ですから一般的にロボットは、「あれができる」「これもできる」と、できることを強調するわけです。

それは私たち人間も同じで、例えば、小さな子どもは“早く一人で靴下をはけるように”と期待され、あるいは学校の試験も、誰の手も借りずに、一人で受けるのが当然です。一人でできることを、良しとする価値観があるのですね。

個の力で物事を解決しようとする考え方は、「個体能力主義」と呼ばれます。しかし私たちは、必ずしも、個の中だけで閉じたまま活動してはいないのです。子どもは一人で靴下をはいているように見えて、実は、背中を壁につけたり、いすに座ってバランスを取ったりするなど、周りを頼っています。

私は、“自己完結が当たり前”という常識を捉え直し、周りに支えてもらうようなロボットを作れないかと考えました。個体の機能をそぎ落とし、周囲との関係性を探究できれば面白い、と。

そして、学生たちと一緒に、<弱いロボット>と名付けて開発に取り組んできました。自分だけでは問題を解決できない「弱い」存在ですが、周りとの関係性を豊かに構築することで、最後は目的を達成してしまうようなロボットです。
引き算の発想
――“なんでもできる”ことを目指すのではなく、周囲の手を借りるのですね。

一例として、私たちが開発した<ゴミ箱ロボット>には腕がなく、自分ではゴミを拾えません。では何をするかというと、ゆっくりと歩き回り、ゴミが落ちているのを見つけたら、体を揺らしたり、声を出したりしてアピールするだけです。

そうしているうちに、様子を見ていた周囲の人たちが、一生懸命、ゴミを集め始めたりします。自分ではゴミを拾えなくても、周囲の助けを引き出して、結果として、ゴミ拾いという目的を完結するわけです。

拾った物がゴミなのか、誰かが落としたものなのか。燃えるゴミなのか、燃えないゴミなのか。価値があるのか、ないのか。そういった判断は、ロボットには難しい側面があります。また、例えば薄っぺらいゴミを拾うことも、ロボットのごつごつした手では大変です。

むしろ、そうしたことは人間の方が得意です。そうであれば、人に手伝ってもらった方が早いんですね。すると、どんどん機能を追加する「足し算」ではなく、シンプルに作って、多くを周囲に委ねる「引き算」のデザインになります。そんな発想から、弱いロボットが生まれていきました。

ゴミ箱ロボットは、「もこもこ」と意味不明な言葉を発しながら、ゴミが落ちていることを周囲に知らせます。ここで「ゴミが落ちている。拾って」と言ってしまうと、人間は“指示されている”“使われている”と感じてしまうのですが、ロボットの言葉が拙い分、聞き手側が解釈する余地が残ります。

“困っているのかな”と聞き手側が考えることで、“放っておけないな”という優しさも引き出されるのですね。納得した上で手伝うので、ロボットが目的を達成できたことを、手伝った側もうれしく思います。

効率性や便利さばかりがものづくりの目的になりがちな現代ですが、こうした「関係性」を志向するものづくりの考え方が、あってもよいのではないかと思うのです。

かわいらしいしぐさや言葉で人との関わりを引き出す<む~>
――「弱さ」が結果的に「強み」になる、という視点を示されていますが、人間にも同じことが言えるでしょうか。

人の体を外から見ると自己完結しているように見えますが、内側から自分を見ようとすると自分の顔すらも見えません。そういう意味では、本当は誰もが不完結なんです。

不完結だからこそ、コミュニケーションを取って補完し合うのですが、人間には、不完全さという意味での「弱さ」を他の人に見せようとせず、強がってしまう傾向があります。

しかし、目の前の人が、そうした「弱さ」を少し開示してくれると、“私と同じだ”と思えて距離が縮まり、共感が生まれます。反対に、互いに強がってばかりいては、なかなか協力関係が生まれないと思うのです。

社会を見ても、弱さは隠されることがほとんどです。しかし、例えば10年前、東日本大震災で電力が逼迫した際に、電力会社はその事実を隠さず、“明日は80%しか、まかなえません”といったように公表しました。

弱さが開示されたことで、“ここは節電できる”“この明かりは消せる”といった、全国の人の工夫や優しさが引き出された面があったと考えています。“大丈夫、大丈夫”と強がられてしまうと、そういう共感は、なかなか引き出されないと思うのです。
ブリコラージュ
――今、コロナ禍の中では未来を見通すことが難しく、誰もが不安定・不確実な“弱い”状況にあると言えます。

「ブリコラージュ」という言葉があります。有り合わせのものをかき集めながら、周りの環境や制約を上手に生かして、問題解決をしていく方法です。

一般的に、何か問題が起こると、事前にデザインした通りの解決法を実行しようとするのですが、世の中に、事前に備えることができるような問題は、そう多くはありません。むしろ、この先どうなるのか分析も予測もできない状況の方が多いわけです。これらは問題が閉じていない、「オープンな(開いた)」状態です。正解が見えないコロナ禍も、まさにオープンな問題であると思います。

こうしたオープンな問題に対しては、周りの環境や制約を味方に付けたほうが都合がいい。

例えば、お掃除ロボットは、真っすぐにしか動けない、シンプルな機能のものです。部屋の壁や机やいすにぶつかると方向転換して、またひたすら真っすぐ進むのです。これは、自分の行動の一部を壁や家具などの環境に委ね、次に進む方向を教えてもらっているということでもあります。

本来、壁や家具は、ロボットにとっては“障害物”として、忌み嫌われるようなものです。しかし、それらをむしろ味方に付け、上手に利用することで、部屋を満遍なく掃除してしまう。とても賢いですね。

ブリコラージュは、レシピ通りに料理を作るのではなく、冷蔵庫の有り合わせのもので調理をするようなものです。いつも同じ味にはなりませんが、意外とおいしく、オリジナリティーのあるものが生まれます。

ゴミ箱ロボットの開発にあっても、技術や研究予算に制約があったからこそ、人に手伝ってもらうロボットを作ろうという発想になりました。もし技術や研究予算がそろっていたら、腕を付けてみたりして、もっと高機能なロボットを開発していたかもしれません。有り合わせの中だからこそ、従来とはひと味違うロボットが生まれたと思っています。
“不完全さ”を補完し合うことで 強いレジリエンス(困難を乗り越える力)が生まれる
――周りの環境や制約をバネにしながら働く<弱いロボット>は、コロナ禍で求められるレジリエンス(困難を乗り越える力)の在り方を、示唆してくれているように思います。

お掃除ロボットが真っすぐ進んで壁にぶつかり、すかさず進行方向を変えて掃除を行う様子は、周囲や環境を味方にしていくことの“強さ”を教えてくれており、人間の生き方にも通じます。

コロナ禍のように予測不能な状況下では、事前に準備したプランが役に立たないことが、しばしばある。そんな時、目の前に現れる状況を味方に変えていく柔軟性がある人は強いわけです。まず一つの解決策を試して、ダメだったら次の策を素早く取り入れるという俊敏性も、大切になります。

当事者研究の第一人者で東京大学准教授の熊谷晋一郎さんは、「依存先の分散としての自立」という概念を提唱しています。自立とは「誰の手も借りずに、一人で行えること」ではなく、「依存先を増やし、分散させておくこと」である、と。

レジリエンスを「個人の能力や資質」と見るのではなく、「頼れる依存先を豊かにしていくこと」と見る考え方ですね。

ロボットと人との関係も、人と人との関係も、自分が弱さをさらけ出すことで、相手の優しさを引き出すことができます。その意味で多くの人の恐怖や不安が露呈するコロナ禍は、新たなつながりをつくり、依存先を増やすチャンスでもあります。

そうした補い合いや支え合いの中で、強いレジリエンスが育まれていくのではないでしょうか。

価値創造の好機
――マイナスと捉えられがちな「弱さ」から「強い関係性」を生むという研究は、価値創造を意味する創価の哲学とも響き合うものです。

その通りだと思います。はじめから全部が備わっているのではなく、ほんのちょっと隙間や余地があることで、周囲が手を加えるきっかけになります。そうして関係性を引き出すのは、人間のつながりも同じですね。

不完全であったり、弱さがあったりするからこそ、そうした面を介して人とつながり、一緒に価値をつくり出していけるのだと思います。

私は高校時代、数学、特に因数分解が苦手でした。毎日、問題集を解くことを自分に課したのですが、一人では解けないわけです。そこで何をしたかというと、次の日に学校で、気のいい友人たちに教えてもらったんです。

ある意味で自分の弱さをさらけ出したわけですが、その友人たちは「そうか、分からないのか」ということで、教えてくれたんですね。弱いところを繕わずに伝えることができれば、次の展開がどんどん見えてくるものだと感じました。

そうしたことができるのは、相手を信頼しているからこそだと思います。そして、相手もまた、弱さをさらけ出してくれることで、信頼関係はさらに強くなります。

不完全さという意味での「弱さ」を互いに共有することで、距離が縮まり、強いつながりが生まれます。そういう豊かな関係性の中では、「○○する側」「○○される側」という線引きは、なくなっていくのだと思います。

反対に、「やってあげる人」「やってもらう人」、「教える人」「教えられる人」というように役割が分かれると、相手にお願いばかりすることになり、要求水準がどんどん高まっていきます。そうなると、互いの間に距離が生まれ、共感や思いやりが失われ、非常にもろい関係性に陥ってしまう。不完全さ、弱さを認め合いながら、皆が支える側にも、支えられる側にもなるような社会づくりが大切です。

コロナ禍は、ある意味で、意図せずとも多くの人が、そうした面をあらわにせざるを得なかったような状況ではないでしょうか。しかしそれは、価値創造のチャンスとも言えます。ある一人が自分の不完全さを正直に伝えることで、周りの人もまた、同じことをしやすくなるからです。その意味で、その最初の一人は「先駆者」と言えるわけです。

最近、「オーセンティック・リーダーシップ」といわれる、自分らしさをさらけ出すことで皆を糾合するリーダーシップの在り方が注目されています。“自分はここが弱いけど、頑張っているよ”といった等身大のリーダーに、周囲の人は共感し、付いていきたいと思えるのかもしれません。

そうした不完全さの共有の中で、「個人の力」の足し算を超えた、組織としての強さが生まれていくのだと思います。

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