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5月

朝日新聞「耕論」(2018/05/23)

朝日新聞の「耕論」(2018/05/23)にて、「コミュニケーション能力」についてのインタビュー記事を掲載していただきました。

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弱さを補い合って成立 岡田美智男さん(豊橋技術科学大学教授)

「これができる」とか「あれができない」を世の中では「能力」と言い、個々人の力と考えています。就職活動の際の「コミュニケーション能力」とは、自分の考えを整理し、相手にわかるように過不足なく伝える能力といった程度の意味に理解されているのでしょう。学生たちは「コミュ力」が高い、低いの言い方になじんでおり、その個人差を意識しているようです。

人間と人間のコミュニケーションは言語化しにくい部分があります。しかし、片方をロボットに置き換えると、いままで見えていなかった本質が見えることがある。私はそんな研究をしてきました。

例えば言葉です。ロボットが人間の言葉を100%理解しても、一本調子の返答だけでは、冷たく機械的な印象で、会話に思えません。ところが、わざと「言いよどむ」ように調整すると、一生懸命話す生き物らしさが出て不思議と耳を傾けたくなります。

その理由は、正確・簡潔に答えるロボットより、むしろ言葉に詰まったり、言い直したりするロボットの方が現実の人間同士のやりとりに近いと感じるからだと思います。

ふだんは意識しないけれど、人間は不完全さをお互い補い合い、コミュニケーションを成立させているのです。

例えば、2人の若い女性が雑談している話を、すべてそのまま書き起こしたことがあります。ハワイ旅行の思い出話をしているのに、書き言葉に変えると、意味不明です。言い間違えたり、話がそれたり――。ところがその場では、不完全なまま相手に委ねられた言葉は、相手の解釈によって補われ、コミュニケーションが成立するのです。

私たちの「あいさつ」だってそうでしょう。相手が返してくれて初めて、あいさつとして意味を持つ。返してくれないと宙に浮いたままです。

つまり、言葉を話すとは表現行為であると同時に、知覚したり、探索したりする要素も含んでいるのです。自分が主体として言葉の意味を100%決めているように見えて、相手が受け取らないと完結しないのです。電車の中で携帯電話で話す人の声を快く感じないのは、私たちが無意識にセットとして考えている「受け手」の言葉が聞こえないからかもしれません。

それならコミュニケーションに能力という言葉をつけて個人に帰属させるより、コミュニケーションとは2人の持ちつ持たれつの間で立ち現れる関係だと考えるべきです。

つまりコミュ力とは、不完全な私たちが、お互いを補い、支え合うなかで生じる関係の力です。言い方を変えれば、自分の弱さ、不完全さを上手にそして適度に他者に開示することによって、相手の手助けを引き出していく力とも言えるでしょう。

(聞き手・中島鉄郎)

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