07
12月

書評空間 :: 紀伊國屋書店(2012/12/07)

書評空間 :: 紀伊國屋書店(2012/12/07)にて、『逝かない身体』の著者・川口有美子さんに『弱いロボット』の書評を書いていただきました。

(オリジナルは、ここです)

「ひとりでできないもん、って、つぶやいていたんだけど」

ロボット開発の話かと思いきや、そうではなかった。この本は私に「違う話」をしたがっている。いや、もちろん著者の岡田美智男さんは優秀な科学者でロボットの開発者で、そして、彼が執筆したのはロボットの話だ。独創的な発案で誕生したさまざまな、コミカルなロボットたちが次々に登場する。そしてそれらのロボットの愛らしさについてはここで言うまでもないのだが、たいしたこともできないそれらのロボットの存在理由が、なぜか、じんわり心に沁みた。

読書の真髄は、読み手に意味が託されているところにある。読み手にいかようにも読まれ、委ねられ、託される本が良本である。誰もが読書を通して秘密の関心事の解を読み取ろうとするのである。ちょうど、この本を読みだした時の私は人生最大のストレスに見舞われていて、いかにしてこれを回避できるか、手放せるかが関心事であった。

親しい人との接点や、仕事をして糧を得るという営みの中での、他者との関係において、とても悩んでいた。当然、私は私の身勝手さや不明瞭さ、失敗を許さない。私は真面目にも、きちきちとやるべきことを分担し分担された。仕事でも私生活でも、相手がいれば、最初から私のすべきことは相手によって規定されてしまうと思っていた。思いやりのあるつもりで、相手や第三者の意図を私は想定し、あらゆる可能性に配慮して、予測し、大きな網を張って、近未来を待ち構えてきた。他者がいれば、そのほとんどの営みが、そういった双方向性である(べきである)からには、相手の立場から自らの位置を決めるのだ。よい行いとは、ほぼそんな発想で始まっている。

そして、岡田さんの初期ロボット開発においても求められていたのは、そういった余地のない流暢さだったという。しかし岡田さんは疑問を持ってしまった。そして、いわゆる「非流暢なメカニズム」に惹かれて、関心が移っていったという。何かおもしろい研究テーマはないかなあ、ということで参照されたのが「関西弁」。コミュニケーションにおける相互のシンクロニーでは、相手の言動を予測しなければ次の手が出せないというのではなく、むしろ自分の発話の意味さえ相手に投げ出して、委ねてしまうことのいい加減さに、面白さを発見される。関西弁にある一種の軽快さだ。相手のどんな反応に対してもおおらかに対応できる、という安心感みたいなもの。そして、それが「賭けと受け」という概念として像を結んでいった。

たとえば、一歩踏み出す時の地面は自分が歩いていると同時に「地面が私たちを歩かせている」。歩く時、着地について我々は何かを考えているわけではないが、地面に身体を委ねている。そこに受けと賭けの関係が生じる。ということで、自分は常に主観的に振る舞っているつもりだが、実はそうではないのかもしれない。ためしに、意識を主から従へと切り替えてみる。すると著者が言うように、「投機的な振る舞い」ができる私が感じられるようになり、世界が新鮮に見えてくる。

他に委ねる生き方については、私も拙著『逝かない身体』の主要な要素として、重度障害者の生として描いたことがあったのだが、岡田さんはそれを、ロボット製作のコンセプトとして使ってしまった。

たぶん岡田さんは、何もできなくなってしまった植物状態の人とか、末期患者の生のあり方についても同じように考える人なのだろうなぁと漠然と想像ながら、実はかくいうこの私こそが、たいへん頑固にキチキチと、誰かに期待し、誰かと自分とはこうあるべきだという常識に固執していた。「ひとりではなにもできない。ひとりでは生きられない」そう呟きながら…。

だから、もう、近くにいるたくさんの誰かさんには期待しないで無計画に委ねたいと思う。そうして、私を委ねるところから、がちがちした関係をひらいていく。そのためにも、私をまず柔らかにしていこう。自分をひらくヒントがあった。新しい視座を与えてくれた。この一冊も「ケアをひらく」シリーズである。

(川口有美子、『逝かない身体』など)

 

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